「アラビアのロレンス」を巡る旅 in UK/2006年2月

2006年2月「アラビアのロレンス」展に行くぞっ<その2>

誕生

後に「アラビアのロレンス」と呼ばれたトマス・エドワード(T.E.)ロレンスは1888年8月16日、英国ウェールズ地方のトレマドックにて生を受けた。
父トマス・チャップマンは妻と娘たちを持つアイルランドの貴族だったが、娘たちの家庭教師のセアラ・メイドンと恋におち、英国へと駆け落ちをした。しかしトマスの妻が離婚に応じず、彼らは内縁関係のままであったため、彼らは姓を「ロレンス」に改名した。
英国やフランスを点々としながら5人の息子をもうけ、後にこの「ロレンス」姓を有名にした2番目の息子は幼少の頃は「ネッド」と呼ばれていた。
ネッドの家庭は裕福ではないが領地からの収入があり、趣味人の父は子供達に当時の最先端だった自転車や写真などを教えた。
一方で敬虔なクリスチャンであった母は、息子達が私生児であることに罪の意識を感じ、彼らに厳格な教育を行った(ロレンスの性に対する潔癖さはこのあたりが深く影響していると言われています。)

 

狭い通路への入口に置かれていたのは、ロレンスの小さな濃紺のベルベットの子供服と、箱に収められた幼い頃の金髪の束でした。 こうやって実物を見ると、白黒だったロレンスの世界が突然カラーになったみたいでした。彼の金髪も書物ではよく書かれていますが、なかなか想像できなかったんですよね。
でも、ロレンスの自著の中で、ベドゥインの老女がロレンスの瞳を見て「頭蓋骨を通り抜けて青空が見えているようだ」と話すくだりがあるのですが、さすがにその碧眼を見ることはできないね・・・。

 

青年期

ロレンスが8歳の頃、一家は子供達の教育のため英国オックスフォードに居をかまえた。
学生時代のロレンスは成績優秀だったが、小柄な体格が不利になると考えたのか団体スポーツを毛嫌いしていた(サッカーなんて観戦すらしなかったんだって。)
読書好きな一方でとても冒険好きで、また友人とのけんかで骨を折りながら、誰にも言わずに授業を受け続けていたり、食や睡眠を断ってみたりと、変わった行動も多かった。
また父の影響で考古学に興味を持ち、17、8歳の夏休みにはフランス中の古城を自転車で巡った。
そして地元の発掘現場にも顔を出すようになり、後のロレンスの人生に大きな影響を与えるアシュモリアン博物館長のホガース博士と出会った。
その後、オックスフォード大学に入学し歴史学を専攻するが、講義にはあまり出席せず、彼のために庭に建てられた「離れ」で本を読んで過ごしていた(考古学から中世文学、詩や軍事理論まで読みあさったロレンスを、学生仲間は「大学の図書館の本を全て読み尽くしたらしい」と噂したそうです。)

そんな「風変わり」なロレンスが大学生活最後に行ったのが、卒業論文を完成させるためのアラビアへの旅行だった。
ホガース博士たちの忠告も聞かず、小さなバッグとカメラを持ったロレンスは2ヶ月間、パレスチナ(現在のイスラエル)、レバノン、シリアに残る数々の十字軍の城跡を徒歩で回った。時には病に倒れ、強盗にあって九死に一生を得ながらも、現地の人々の親切を頼りながら生活を共にした経験が以降の彼の人生を大きく変えることとなった(ちなみにその卒業論文は優等賞を取ったそうです。)

 

そこから通路に入っていくと、オックスフォード時代の品々である、フランスやシリアでの研究ノート(と言ってもかなりブ厚くてデカいんだけどね)や、彼が使ったカメラ、おみやげに買ってきたアラブの頭巾やローマ時代の彫刻のレプリカなど、写真でよく見ていたものが実際に並んでいました。
さすがに研究ノートを見てもその考古学的意味なんて分かりませんが、しっかし、ロレンスって、実は絵もけっこう上手いんだよね。なんでもソツなくこなす男で、ちょっとムカついちゃったぞ(笑)