「アラビアのロレンス」を巡る旅 in UK/2006年2月

2006年2月「アラビアのロレンス」展に行くぞっ<その5>

戦後

「若者は勝利した。しかしそれをどう維持するのか学んでこなかった。私たちは新しい天国と新しい大地のために戦ってきたのだと言おうと口ごもっている間に、彼らは私たちに礼をのべ、そして彼らの平和を作り上げてしまった。」 - 「知恵の七柱」

ロレンスの戦争は政治の場に移った。

第一次世界大戦が終わり、ロレンスはパリ講和会議にフェイサルの顧問兼通訳として出席した。ロレンスが目指したのはアラブを「最後の褐色の植民地ではなく、最初の褐色の同盟国」とすることだった。しかし英国はアラブとの約束よりフランスとの協定を選び、失望の中でロレンスとフェイサルはパリを去った。

しかしオックスフォード大学の特別研究員の地位を与えられたロレンスはそこから英政府への攻撃を始めた。彼が「英国政府とのドッグ・ファイト」と呼んだ戦争は、新聞への寄稿などによって辛辣に政府の対中東政策を批判し、世論を支持を勝ち取ろうとしたものだった。

当時、シリアを支配下に置いたフランスはフェイサルを追放したが、英仏のやりかたに不満をもった兄のアブドッラーが挙兵していた。またイラクでは英国支配への反発から暴動が頻発し、列強の中東政策は混乱していた。

この情勢を解決するため、当時植民省相であったウィンストン・チャーチルの元に中東局が新設され、ロレンスはすぐに顧問として呼ばれた。

そして関係者によるカイロでの会議で、今回はロレンスの提案が受け入れられた。しかしロレンスにはこの提案をフェイサルたちに了解させる困難な仕事が待っていた。交渉は時には難航しながらも、ロレンスの提案通りにフェイサルをイラク王に就任させ、アブドッラーをトランスヨルダン王とし、二つのアラブ国家を成立させた(ここからロレンスには「キング・メイカー」というあだ名もあります。)

ロレンスにとってこの解決は当時最善であり満足な結果だった。しかし政治の世界の中での駆け引きに神経衰弱すれすれになったロレンスは、引き続き彼の下で働くことを望むチャーチルに別れを告げ、誰も想像すらしなかった人生を選んだのだった。

隣の部屋には今回の回顧展の目玉である、新たに発見されたというロレンスが書いた中東構想の地図がありました。
なぜそれが今頃発見されたのかというと、博物館にあった新聞記事を少しだけ読んだところ、どうやら全く違う年代のところにファイリングされていたらしく、最近その時代の資料が公開になって発見されたようです(間違っていたらゴメン。)
思っていたよりもずっと小さな地図で(50cm×50cmくらい?)国境線をどのように引いて、どの王子が治めるか書かれていました。

この構想のすぐれた点は、民族や宗教で国境線を決めており、特にクルド民族を独立させる発想は、現在のイラクやトルコで彼らが置かれた状態を考えると非常に先見の目があったと評価されているそうです。
確かにイラクのクルド人が住む地域はロレンスの地図では「?」と書かれ、アラブ国家の中には組み込まないようになっていました。

またそのすぐ下にイラクのシーア派とスンニ派について考えたメモが置かれていて、「フェイサルなら両派から支持されるので分ける必要はない」と書かれていました。今のイラクの現状を考えると複雑だけど、この時にこの両派の対立についても考慮していたのはちょっとビックリ。

でも・・・ロレンスのこの時期の仕事について理解するにはまだまだ勉強不足だなぁ。

「知恵の七柱」

「私が語らなければならないのは、これまで人類が書くために与えられたものの中でもっともすばらしい物語なのです」- 1922年の手紙

「本を書き終えて読み直してみると、これが芸術とも言えない代物だという事実に気づき、顔面を殴られたような気分になりました。私はこれは大嫌いでした。」- 1923年の手紙

ロレンスはパリ講和会議の頃から、アラブでの戦いを記録した「知恵の七柱」の執筆に取りかかっていた。

約3万語からなるこの大作はアラブの戦争を記録として書き残す以上に、ロレンスの長年の夢であった作家になることと美しい本を作るという二つの思いが込められていた。
講和会議の時期に一度完成したが、しかし英国の駅でバッグと一緒にすべての原稿を失ってしまった。「せいせいした」と語るロレンスをホーガス博士や友人たちは説得し、再び筆を持たせた。しかし二度目の原稿はロレンスには不満だったらしく、それを焼却してしまった。そしてようやく完成した三度目の原稿を活字印刷して5部のみ製本し、友人たちの批評を求めた(これはオックスフォード印刷が作製したため「オックスフォード版」と呼ばれています。)

しかしこの作品は出版すれば間違いなく名誉毀損の裁判を起こされる内容だった。またロレンスが満足できる本にするためには、一般的な出版は不可能だった。そのためロレンスはこれを予約者限定の自費出版として作ることにきめた。

ケニントンや多くの画家にアラブや英国軍の人々の肖像画を依頼し、活字も選び、専門の印刷工を雇った。費用は際限なく膨れ上がり、予約版の価格を高値に設定しても(今の金額で10万円以上?)資金が足りず、銀行からの借金を重ね、何度も頓挫しそうになりながらもなんとか出版のメドがついた。

友人達の批評を参考に本文の添削も進め、1926年にようやく予約版が日の目を見た。(ロレンスの死後に問題の箇所を削除したものが一般向けに出版されたため、この本には「オックスフォード版」「予約版」「普及版」と3つのバージョンが存在しています。)

劇作家バーナード・ショーの妻、シャーロットに批評を求め、「一人称を多用しすぎでしょうか?」と聞いたロレンスに対し、彼女は「この物語を一人称以外で書く事など不可能です」と答えたという。
その言葉通り、ロレンスはこの本を「歴史書」ではないと語り、あくまでロレンスの主観に基づいたアラブ独立戦争の記録の書となっている。そして同時にロレンスの告白書、思想の書でもあり、ゲリラ戦の教本、アラブの歴史と風習を記録した本としても読まれ、多彩な側面を持った本となっている(確かに小難しい本ですが、ロレンスとベドウィンたちとの笑えるやりとりや、トルコ軍のまっただ中で自分が乗っているラクダの後頭部を撃ち抜いちゃうロレンスのマヌケっぷりとか、部隊の臨時のリーダーに任命された時、「それだけは無理というものだ。オックスフォード大学ではラクダの世話の仕方は教えてくれなかった」なんてブリティッシュ・ジョークに、読んでいる電車の中で笑いをこらえて肩がプルプルしちゃいます。)

ロレンスは自分の欺瞞への罪悪感から、それで何かしらの利益を得ることを拒否した。そのため「知恵の七柱」からの金銭的利益もなかった。ただ、1927年にこの本の行動面の文章だけを機械的に集約した簡易版「砂漠の反乱」がベストセラーとなり、その本の収入で「知恵の七柱」の借金は消えている(そして残りの収益は寄付にまわされました。)

そして同じ部屋には同時に「知恵の七柱」関係のものが置かれていました。

ケニントンが描いたアラブの人々の肖像画や、オーガスタ・ジョンが描いた有名なロレンスやフェイサルの肖像画が飾られていていました。
オーガスタのロレンス像は穏やかで柔和な表情のものが多くて、アラブ服を着たロレンスの鉛筆画なんて「誰だよ、これっ!?」と言いたくなる程のハンサムな憂い顔ですが、一方、ケニントンの描くロレンスは非常に写実的で、こっちも「誰?これっ?」と思うほど怖いくらいに冷徹な顔に描かれていたりします。この二人の画家のロレンス像を見ていると、彼の二面性が見えてくる気がしました(ちなみに「知恵の七柱」の中のマンガちっくなイラストもケニントンが描いていて、この絵のロレンスなんて二頭身(笑)それでいいのかっ?ロレンス?)

そして「知恵の七柱」の手書き原稿やオックスフォード版、予約版が置かれていて、ちょっと興奮。

予約版の中が見れないのは残念だったけど、でもオックスフォード版はとても細かい字でみっちりと印刷されていて、それが7〜8cmの厚さもある代物で、これをいきなり送られた友人も大変だよなぁ。一緒に置かれていたバーナード・ショーへの手紙なんて、「2つの質問があります。最初の質問;あなたはまだ本を読みますか?そうなら2つめの質問をさせてもらいます。私の本を読んでくれますか?」と書いてあって、ちょっと笑えました。

そして手書きの原稿なんて・・・スゴいよぉ!インデックスが付けられた10cm以上の厚さの紙の束が表紙をつけて鍵付きで綴じられていたんですが、こんなモノを3回も書き直したのかよ?しかもロレンスは最初の原稿を書きながら資料を燃やしていったらしいから、あとの2回は頭の中に残っていた記憶で書いていたのかと思うと(しかも同時に2つの国家を作っていたのかと思うと)、今更ながらコイツの脳みそに呆れました。と、同時にこれを活字にした人たちの根気にも拍手。

そしてこのコーナーの音声ガイドはこの本の最初に収められている詩「to SA」の朗読でした。
「君を愛していた/だから私は群衆の潮をこの手に引き寄せ/星々のはざまから見える空に/私の意思を書き記した」
こうやって朗読で聞くと流れるような詩なんだなぁと思いました。

今回の回顧展の音声ガイドで「知恵の七柱」を朗読で聞いたんですが、原文は実は非常に読みやすい文章なんじゃないかと思ってしまいました、というか、今の日本語版が死にそうなまでに読みにくいんだよねぇ。古い訳文(60年代頃)だからしょうがないけど、それでもロレンスが「私がそこにおった時」なんて訳には「どこのジジイだよ!」って言いたくなるし、さすがにロレンスが「これでは『いざ鎌倉』という時に」と言っている場面では椅子から転げ落ちましたよ。
一瞬にして頭の中でロレンスがタッキーになっちゃった・・・。

リビング・レジェンド

ロレンスが「英国政府とのドッグ・ファイト」を繰り広げていたころ、アメリカのジャーナリスト、ローウェル・トマスが開くショーがロンドンで大反響を起こしていた。それは彼が大戦中に撮影したアラブ戦線やベドウィンの写真のスライドを音楽やダンスとともに見せるショーだった。

当時アメリカの参戦の可能性を考え、国内の戦意高揚のためのニュースを探してアラブにやってきたローウェルは、そこでアラブ服をまとった碧眼の青年に目を留めた。その青年はベドウィンたちと生活を共にし、鉄道爆破に向かうかと思えばテントの中で独りで中世文学や詩を読んでいた。この青年に興味をもったローウェルは彼を取材したのだった。

このショーはアメリカなどに続き英国でも人気を博し、ローウェルが考えたように例の青年に人々の興味は集まった。彼はその青年を「アラビアのロレンス」と名付け、このエキゾチックな「英雄」は時の人となった。

アラブ問題に世間の目を向けたかったロレンスはこれを利用しようとし、ショーの宣伝用の写真撮影などに快く応じた(元来の自己顕示欲もあったと言われますけどね。ロレンス自身も隠れてこのショーを見に行き、自分が注目されるのを楽しんではいたようです。)ロレンスは誰もが知る有名人となり、彼がアラブ問題のために会いたいと願えば誰にでも簡単に会えるようになった。

だが新聞や大衆に追いかけられるようになったロレンスは、まるで「しっぽに空き缶をくくりつけられた」のような生活、そして「ロレンス」という虚像に次第に耐えられなくなっていった。

次の部屋にはローウェルのショー関係のものがありました。

実際にローウェルが使ったスライドが上映されて、そのショーの雰囲気がすこしだけ分かった気がしました。
その中にはフェイサルの8ミリ映像もあり、柔らかな物腰と気品を感じさせるフェイサルに、ロレンスが惚れ込んだのがわかるなぁ、なんて思っていたら、「えっ!?隣にいるのはロレンス?!」

ロ、ロレンスが動いてる〜!!うそっ!うぎゃ〜!!と、大興奮!(「そんなのTVで見たことあるよ」なんて言わないでね。なにしろニワカだから、初めて動くロレンスを見たのよ。)おそらくローウェルとフェイサルの通訳をロレンスがしている映像だったんですが・・・でも、なんなんだ??このモジモジ君は!?

背が高くて威厳ただようフェイサルの隣で、小さなロレンスは始終落ち着かなさそうに下を見てモジモジしてる。時折顔をあげてはフェイサルと目を合わせ、ローブのすそをいじったり、照れたように顔を覆ったり、それはそれは内気な青年そのものでした。

すでにこの頃にはアカバ奪還を成功させて、彼の能力は高く評価されていはずだけど、それでもこんなに自信なさげな(そして写真以上に頭がデカイ(笑))ロレンスにかなりビックリでした。

横に貼られたショーの宣伝用の写真の中の、アラブ服姿でナルシスト気味なくらいに自信たっぷりな彼との格差がすごい。でもそのどちらもロレンスなんだよねぇ。