「アラビアのロレンス」を巡る旅 in UK/2006年2月

2006年2月「アラビアのロレンス」展に行くぞっ<その4>

アラブの反乱

「帰りたくないほど現在のここでの状況は興味深いものです。私はイギリスの習慣を拭いさって、しばらくフェイサルと一緒にいたいと思います。面白い仕事、新しい国がここにはあります」ー1916年のロレンスの手紙

1916年、ジェッダに上陸したロレンスはフセインの息子達と面会した。
「反乱を成功させるには、熱狂を持続させるカリスマが必要」と考えた彼は、3番目の王子であるフェイサルにその資質を見いだした。
反乱への援助を約束したロレンスは帰国してその状況を報告、そしてフェイサルの軍事参謀として再びアラブの地に戻った(が、実際は戻るよう命令されると、自分は責任を負う仕事はイヤだし、性格的に現場なんて無理だと目一杯抵抗したあげくに渋々アラブの地に戻ってます(笑)こんなエピソードは映画では描けないよね。)
フェイサルからプレゼントされた純白のアラブ服に着替えたロレンスはアラブ軍の中に入っていった。

しかし状況は酷かった。トルコと戦うためにアラブ軍の援護を必要としながら、「アラブの独立」を心からは歓迎しない英国からの援助物資は時代遅れの武器ばかり。戦闘員も軍事訓練されていない寄せ集めのベドゥインたちだった。しかも長年の因縁を持つ部族の対立を調整しながらまとめていかなければならない(でもこれはカルケミシュで鍛えられたロレンスのお得意技でした。)
その中で彼が選んだのはゲリラ戦術だった。

彼は「軍隊」の形をもたないアラブ軍の短所をむしろ長所として考えた。
砂漠をものともしないベドゥインは奇襲攻撃でこそ最高の能力を発揮する。だから必要な時にだけ部族を集めての神出鬼没な行動を選んだ。さらにそれはアラブ軍が攻撃を受けることも避られた。
そしてアラブ軍の人的被害をさらに最小限に食い止めるため、直接的な戦闘よりも相手を物質的に疲労させていく戦術を選んだ。それが彼に「エミール・ダイナマイト(ダイナマイト王)」のあだ名を与えた鉄道爆破だった。
鉄道破壊はトルコ軍の物資を浪費させ、さらにトルコの戦力をアラブ各地に分散して足止めさせるため、狙った街への襲撃を容易にした。そして列車爆破はアラブ軍に戦利品も与えた(ロレンスはゲリラ戦を初めて「戦術」として理論化させたので「ゲリラ戦術の父」と呼ばれているそうです。)

そしてロレンスが狙った街はアカバだった。
紅海に面したこの港町を奪えば英国軍が北上するための足がかりとなり、またアラブ軍への物資補給も容易となった。
しかし前方が海、後方が広大なネフド砂漠に囲まれたアカバは難攻不落な街だった。
だがロレンスは50人のベドゥインと共に2ヶ月かけて横断不可能と言われたネフド砂漠を渡り、アカバを攻め落とした。この華々しい成果によってロレンスは少佐となり、またアラブ軍は英国の正規の戦力として認められるようになった。
そしてこのネフド横断では、ロレンスは倒れたラクダの肉を食べ、腐敗した水を飲み、時にはベドゥイン以上の強靭な体力を見せた。こうしてベドゥインたちにも認められる存在となっていった。

う〜ん、長いね。一番の山場だから許してね。
さて・・・

ある日、行動を共にしていた部族長から突きつけられた一枚の紙にロレンスに衝撃を受けた。
それは「サイクス=ピコ協定」と呼ばれる英国とフランスによる戦後のアラブの分割統治案だった。アラブに独立を約束しながら、一方でフランスと植民地案をとりきめる英国の二枚舌外交にロレンスは苦悩する。

「一人でダマスカスまで行く決心をしましたが、その途中で私は殺されてしまいたいのです。事態が進んでしまう前にこの茶番劇にケリがつけられたならどんなによいことか。私達はまた嘘をついて我々とともに戦うように彼らを説得します。私はもう耐えられないのです。」 ー1917年の手紙

しかしロレンスは「負けて約束を守るより、勝って約束を破る」道を選んだ。
フェイサルにも英国にも全ての事実は語れなかった。そして英国という「国」ではなく、彼という「人間」を信頼するベドゥインたちが死んで行く中で、自らの欺瞞に対してロレンスの精神は崩壊寸前になっていた。
戦闘のたびに体に傷をうけ、目の前に転がるトルコ兵たちの死体に「早く悪夢から目覚めたい」と願った。しかし村人全員を虐殺したトルコ軍の残虐行為を目の当たりにし、その軍隊の皆殺しを命じた。そして自分を慕っていた召使いの少年が戦闘で致命傷を負った時には自らの手で殺した。ロレンスの手は血に染まっていた。

「私達は今日のために生き、今日のために死んでいった」

不眠不休の中でロレンスの体重は37キロにまで落ち込み、精神的にも肉体的にも限界にきていた彼の最後の望みは、シリアの首都ダマスカスをアラブ軍の手で奪還し、アラブ政府という既成事実を作り上げ英国に認めさせることだった。
そして1918年10月、ついにアラブ軍とロレンスは解放の歓喜にわくダマスカスに入城した。休むこともなくロレンスは市の行政機能を回復させ、フェイサルを呼び寄せてアラブ国民議会を立ち上げた。
わずか3日の滞在でこれらをやり遂げ、そして2年間戦ったアラブから逃げるように去った。

「私達の望みどおりダマスカスにたどり着きました。・・・まるで突然重荷から解き放たれた人のような気分です(その重荷は真っ直ぐに歩こうとする者の背中を常に傷つけてきました。)古い戦争は終わり、私の利用価値も無くなったのです。・・・私たちは奇妙な小さな集団でしたが(私はそう願っていますが)中東の歴史を変えました。これから列強はアラブをどうしていくつもりでしょう。」ー1918年の手紙

通路を抜けた先の部屋は、そこは「アラビアのロレンス」の世界でした。
彼が撮影したジェッダの写真が大きく飾られ、こちらも「よしっ!ジェッダ上陸!」なんて気分。そしてフェイサルにもらった絹のアラブ服やエンフィールド銃、腰につける短刀などがあって、こういうのを見ていると単純にドキドキしちゃうなぁ。

壁一面に飾られたロレンスやフェイサル、部族長アウダたちの写真を見みながら音声ガイドに耳を傾けると、初めてのロレンスとフェイサルの会談のシーンでした。
「『この地、ワディ・サフラはいかがですか?』とフェイサルが聞いた。私は答えた。『良いところです。でもダマスカスからは遠いですね。』私の言葉は皆の間に剣のように振り落とされた。」
なんて、彼が書いた本「知恵の七柱」からのワン・シーンに、もう気分は「アラビアのロレンス」。

この部屋には沢山の手紙や資料、ロレンスが爆破したヘジャーズ鉄道の部品、トルコ軍の資料などがありました。
「ロレンスをカイロに呼び戻さないでくれ」と英国軍に頼むフェイサルの電報や、ロレンスにすぐに自分の元に戻ってきて欲しいと書いた手紙などがあって(アラブ人とイギリス人の間の手紙なのにフランス語で書かれているってのがすごい(笑))フェイサルのロレンスへの信頼を感じました。

そこで笑ったのが「お買い物リスト」!!
ロレンス達が奪還したアカバは物資が不足しており、その調達のためにロレンスはまたすぐにラクダでシナイ半島を横断してカイロに向かうのですが、そんなシビアな場面での調達リストを「ショッピング・リスト」なんてネーミングはないだろぉ〜なんて思っていたら・・・
うわぁ!本当に「ソックス:2足」とか書いてある〜(笑)
「ライフル:2000丁」とか「タバコ:6000本」なんてのは「物資調達」って感じですが、「お茶:紅茶と緑茶」だの「ティーポット」だの・・・アフタヌーン・ティーでもするのかよっ!

そんな中で、壁の狭間の奥にちいさなアクリルの箱がありました。
その中には小さなダイアリーが置かれていました。ロレンスが携帯していたこの1917年のダイアリーは「デラア事件」のあった日のページだけがなくなっていると説明されていました。

「デラア事件」とは、トルコ支配下の街デラアに潜り込んだロレンスがトルコ軍に捕まった事件です。ロレンス自身の言葉によると、トルコの軍政官に肉体関係を迫られ、拒否したロレンスはひどいむち打ちを受けた上に強姦されたといいます。

これをロレンスの作り話だと考える研究者もいますが、「その日以来、私の中の一部が死んでしまった」とロレンスは語り、「たった5分間、苦痛から逃れるためにとりかえしのつかない過ちを犯した」と、自らを「汚れた者」と責め、生涯にわたり苦しみ続けました。

壁の隙間の奥にあるページが欠けたダイアリーは、まるでロレンスの奥底の死んでしまった一部を見ているようでした。

しかも音声ガイドを聞くと、「知恵の七柱」のデラアの場面が・・・。
重い気分で聴いていると、横で小学生の子供がこの朗読を真剣に聞いている(汗)ちょっとマズイだろ、これっ!!チャイルド・ロック機能はないのっ!?

ほかにはロレンスが後にジェッダで購入したという巨大な木製の扉がありました。青銅のラインと細かい彫刻が美しいアラビアらしい扉なんですが、とにかくデカくて「こんなモンをよくイギリスまで持ち帰ったなぁ」とちょっと感心。これは後に出てくるロレンスのコテージ「クラウズ・ヒル」にあったそうですが、イギリスのド田舎にこんな異国情緒たっぷりな巨大なものがあったら、ご近所ビックリだよなぁ。

それからロレンスがメッカで特注で作った短剣がありました。細かい金細工が本当に美しいんですが、大きさが普通の半分くらいしかないんです。普通の大きさでは扱いにくいという理由でロレンスが注文したのだそうですが、手も小さかったってコト?

ちょっと笑ったのは、ロレンスがロールスロイスに乗ってダマスカスに入城する有名な写真。他の写真はほとんど美術館や博物館が管理しているのに、この写真の版権はちゃっかりロールスロイス社でした。

そして1918年のダイアリー。ロレンスは自分が捕まった時を考えて、記録というものをほとんど残さなかったそうで、これも(先ほどの1917年のも)その日にどこにいたのかだけが記入されていました。そしてこれにはたった3日だけ「ダマスカス」と書かれていました。

そのダマスカスでロレンスに出会った画家が描いた肖像画が掛けられていましたが、ロレンス自身も「後で見た時にショックを受けた」というほど、頭布のすきまからのぞくロレンスの顔はやせこけていました。

「知恵の七柱」でダマスカスでのシーンを読んだ時、歓喜で彼の名を叫ぶ群衆と、解放を祝うモスクからの祈りの呼びかけの声の中で、彼だけがこの解放がむなしく無意味だと感じていて、その空虚感に愕然としました。
一番喜んで欲しかったダフームはすでにこの世におらず、そしてこの結末を知りながらここまで心身を消耗したロレンスを目の当たりにして、この2年間の残酷さをまじまじと感じました。